精進料理の中で花開いた大豆料理
平安時代までの料理は、全般的に味が薄く、調理後に各自で味付けして調整するなど、料理としての完成度は低かったといわれています。それに対して、鎌倉時代に広まった精進料理は、平安時代のように鳥や魚を使わないものの、味噌や醤油などでしっかり味付けされており、菜食も特長ですが料理としての完成度をあげたという意味で日本料理に大きな影響を与えました。
精進料理を日本にもたらしたのは、鎌倉時代の禅僧栄西と道元とされています。彼らは宋に留学し、そこで学んだ禅宗を日本に伝えるとともに宋の寺院で行われていた精進食も再現しました。精進料理は、仏教の殺生戒(せっしょうかい)にもとづいて、生きものは素材とならず、穀物や野菜が主体でした。しかし穀物と野菜だけでは栄養に偏りがあったため、たん白源を補うものとして大豆を加工したもの、豆腐、湯葉、納豆などが用いられました。このように精進料理は初め禅宗僧侶の食事でしたが、戦で疲労して塩分を欲する武士たちにも受け入れられ、室町時代には町人にまで広がったとされています。
江戸時代になると1819年に『精進料理献立集』が出版されますが、献立の約9割が豆腐を使用したものとなっており、高野豆腐も使用しています。また、ゆばも「生ゆば」「東寺ゆば」「あげゆば」「おはらぎゆば」など全献立92例中90例に使われているほどで、精進料理には欠かせないものだったことがわかります。