日本では弥生時代の稲作とともに大豆が普及
日本最大級の縄文集落跡、青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡の本格調査が1992(平成4)年に開始されて以来、縄文人は狩猟採集を糧に移動する生活ではなく、温暖な気候の下、大きな栗林や木の実が多くなる森の近くに定住し、栗やドングリを主食にしていたことがわかってきました。また、巨木を用いた高層建築もつくる高い文化を持っていたともされています。
しかし、縄文時代も紀元前2,000年頃になると、世界的に気候は寒冷化に向かい、繁茂していた栗林も衰退、栗などの陸の食料、動物が激減し、縄文人も最盛期の約26万人から約8万人に減少しました。
気候の寒冷化にともなって、稲作技術を完成させていた中国大陸や朝鮮半島の人々が新たな土地を求めて南下、日本に高度な稲作技術が伝わり、大規模の水田開発が進められる弥生時代が始まります。また平野部が狭い日本では水田開発とともに、水田以外の土地で豆類や雑穀の栽培も推し進められていきました。中国では古くから平地での稲作と丘陵地での大豆栽培を経験していたので、稲作とともに本格的な大豆栽培も普及していきました。その他、水田に不向きな土地では、あわ、ひえ、麦、蕎麦などの雑穀類、里芋や山芋などのいも類、まめ類では大豆の他に小豆、ササゲなどを植えていました。